VOL.5 『熊坂の田園風景』 A.D
熊坂の田園風景
実家のそばにある、この何でもない風景が、私に一日の元気をくれるビタミン剤でした。「…でした」と過去形なのは、結婚して20kmほど離れた町に越してしまったから。独身のころ毎朝30分のウォーキングを日課としていた私は、必ずこの田んぼの前で立ち止まり、「ほぅ〜」と深呼吸したものです。今でもウォーキングは続けていますが、残念ながら、ビタミン剤となる風景には出会っていません。同じような田んぼや山、川があるのに、何かが違う。和めない。なんでかな…。最近やっと気が付きました。季節の「音」が聞こえないし、「匂い」がしないのです。
春は鴬、夏は蝉と蛙、秋は虫、冬は踏みしめる雪の音。季節ごとに違う音がありました。そして匂いも。甘いような芽吹きを感じる匂い、草いきれの匂い、収穫を迎えた香ばしい匂い、鼻腔を刺す冷気の凛とした匂い。雨の日も雪の日もウォーキングをかかさなかったのは、この風景、音、匂いの調和のとれた心地よい空間の中に、しばし身を置きたかったからです。そして心のバランスをもらっていました。
朝だけでなく、夜にも楽しみがありました。ホタルです。近くを走る夜汽車の音を聞きながら、蛍光を追う。今思えば、とてものどかで贅沢な時間です。電車が通らない時は、静寂と闇に吸い込まれそうになりますが、怖いと思ったことはありません。子供の頃は怖かったかもしれませんが、大人になってからは、怖いどころか、誰にも教えたくない、お気に入りの場所でした。
風景は、視覚的には同じでも、構成する音や匂いによって、ずい分違った絵になるものなのだと実感しています。嫁ぎ先は田舎ですが、農道でも車はよく通るし、一般道にも近いから、空気がおいしくない。空港のそばだから、朝からジェット機の音がうるさい。コンクリートで固められた瀬ではホタルは生きられない。何だか「ないない」づくし。健康のために歩き続けてはいるけれど、前みたいに出かける前のワクワク感がありません。だから雨が降ったらお休みです。せめてお日様の顔を見ないと歩く気がしないのです。
大学を卒業し、不本意ながら帰郷した12年前。この風景を見たときに初めて、「帰ってきてやっぱり良かったかな。」と思ったことを思い出します。憧れの東京に出ていたとしても、コンクリートと排気ガスに包まれた毎日に疲れ、結局は戻ってきて、同じ思いでこの風景を見つめた気がします。そんな思いを抱く自分に気がついてから、ますます好きになった風景です。
(2004.6)