TOP > 加賀四湯紀行 > あなたの好きな加賀の風景 > VOL.37 『大交流時代に主役になれる風景』

VOL.37 『大交流時代に主役になれる風景 』 T.K

加賀市山中温泉

 (画像は山中温泉街より約12kmほどはなれた大土町) 

昭和40年2月、私もこの世の風景になった。
素朴で純粋で愛くるしい、田舎特有の風景の誕生であったと思っている。
田舎にあったのは、おいしい水と、きれいな空気と、大きな杉の木と1軒のお店だけだったが、何の不自由も感じなかったし、退屈もしなかったし、結構楽しかった。なつかしい・・・・・
<ちっちゃい頃>
年代ものの木橋(通称:こんにゃく橋 今はもうありませんが。)を渡り、田んぼの中の細道を、四季ごとの草花に見送られながら小学校へ通った。こんにゃく橋は大変おおらかなもので、所どころ腐り果てて穴があいており、真下の清流を望むことができたし、度胸試しにも役立った。また、冬になると田んぼの細道は見事に消え去ってしまい、凸凹と回りの風景がたよりだった。少しカンが鈍ると、おもしろいくらいに沈んでいく。何でかわからないが、沈んでいくときはいつも笑っていたように思う。その結果、石油ストーブの前にはひっくり返って立っている長靴が整然とならんでいた。当然ながら、部屋の中はミョーな臭いがした。なつかしい・・・・・

<少し大きくなった頃>
同級生が20人から200人に増えた。(今でも仲のいい友人のほとんどが20人の中にいる。)この頃になると、茅葺き屋根の家も、田んぼも、蛍も姿を消してしまった。身近な風景が大きく変わっているのに何にも感じなかったし、「便利さに勝るものはなし」と思っていた。同級生が300人に増えた頃には、便利さにしがみついていた。
<大きくなった頃>
車を運転できるようになった。行動範囲がメチャメチャ広くなり、文明の利器に感謝する日々が続いたが、いつの頃からかわからないが少し退屈に感じるようになった。食べたいものもすぐに手に入るし、行きたいとこへもすぐに行けるし何の不自由もないのに(勝手なもんだ)・・・・。ただ、疲れているのか余裕があるのかわからないが、時々、歩幅が小さくなることがあるようになった。そんなときに会いたくなるのが「昔」なんだろうなと思うようにもなった。が、その会いたい「昔」はずいぶん「今」に変わって しまって・・・・・残念だ。
でも、一番変わってしまったどうしようもない風景は、昭和40年2月の風景かもしれない。
(2007.2)

このページのトップへ