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TOP > 加賀四湯紀行 >歳時記 > vol.31 『木の命を生かし切る「気高い純朴さ」技と心の原点』vol.32-2
『優しき、誇り高き大内の人々。山あいの秋祭りをたずねて。』
山中温泉からさらに奥へ12km、石川県の南端に旧大内村がある。昭和58年に廃村。福井県の県境を貫く真新しい「丸岡・山中温泉トンネル」のすぐ手前、左の細い脇道を少し上がると、東屋のある広場と小さな神社が見えてくる。そこが村の跡である。まだまだ夏の日差しが強い8月の終わり、大内村の秋祭りをたずねた。廃村なのになぜ秋祭りが?と不思議に思われるだろうが、廃村以来20数年間、離村者たちが毎年春と秋の祭礼の日にみんなが集い、酒を酌み交わし、お互いの無事を喜び、村の歴史、そこに生きた記憶を思い起こしているのである。
この大内は木地挽きの盛んな村で、大正の頃には31戸180人の村民全てが木地挽きを生業にしていたという。山間地の人は、海沿いや平野部の人々よりはずっと結束力が強いと聞く。農作の困難からくる食料の不足や、冬には3mの積雪となる気候の厳しさなどが、村人に共存共栄の心を染込ませてきたのだろう。その顕著な表れを大内会世話役のOさんから聞いた。
「大正時代に木地挽きの村営工場があった。こんな小さい村に3つの共同作業場を村でつくったんや。一軒一軒でロクロを持つよりも1台のロクロをみんなで順番に使えば無駄がない。大事な電気や土地を有効に使えるやろ。あの昔に、大内の者はすでにそういう考え方をしていたんや」と。
そしてこう続けた、「このトンネルの用地交渉も一致してやった。お互いが恨んだり喧嘩せんように。村跡にあるこの公園も、その時の金を少しずつ出し合ってつくった。故郷でゆっくり集えるように。大内には時代時代にリーダーがいて、ほかのみんなも納得して協力する。ほころびが出ないんや」。
秋祭りの広場は老いも若きも一緒になって賑やかだ。蕎麦を打ったり、鮎を焼いたり、めいめいが自慢の分野を担当しながら楽しんでいる。和やかな笑顔には、互いの信頼感がにじみ出ているようだ。厳しかった時代には、村のさまざまな決め事、規律が窮屈だったこともきっとあると思う。限られた資源を食いつぶさないために住民自らがルールを考え、話し合い、そして責務を負う。「自律と自治」の遺伝子を脈々と受け継ぐ大内の人たち。集まっている人たちの顔からは、この地に生まれ育った誇りが満ち溢れているように見えた。
(2006.9 M.O)