初めての加賀温泉郷

3つの温泉地と城下町、漁港、宿場町など、6つの地域からなる加賀温泉郷。それぞれに異なる個性を持ち、四季折々の里山や海の幸に恵まれたこの地域は、何度訪れても飽きることはありません。
文人墨客をはじめ、多くの人々を惹きつけてやまない。そんな加賀温泉郷の魅力に迫ります。
初めての加賀温泉郷

片山津温泉(かたやまづおんせん)

日本三大霊峰のひとつ白山が望める柴山潟湖畔にある片山津温泉。

明治初期に湯宿ができた比較的新しい温泉地です。柴山潟は時間や天候の移ろいにより、日に七度色を変えるといわれ、美しい湖面の眺めは観るものを魅了します。また湖畔にある遊歩道や周辺エリアは、彼方にそびえる白山連峰を一望することができるビュースポットでもあります。


2012年に完成した近代的かつモダンな建築物である「総湯」は、浴室が「潟の湯」と「森の湯」に分かれています。「潟の湯」では前面に広がる柴山潟の湖面と浴槽の水面が連続し、まるで潟に浸かっているかのような解放感を味わえます。また、遠くに望む霊峰白山が柴山潟の湖面に写り込む絶景を見ながらつかる温泉は最高の贅沢です。一方、「森の湯」では周囲を樹々の緑に囲まれ、リラックスした入浴時間を過ごすことができます。浴室は奇数日・偶数日によって男女が入れ替わりになっていて、どちらに入れるかは事前にHPでチェックを。


柴山潟から、1日に13回吹き上がる大噴水は70mもの高さがあり、まるで大きく翼を羽ばたかせる白鳥のよう。水が弧を描き、その水しぶきに太陽の光が反射して虹がかかる様はとても優雅です。夜には浮御堂とともにライトアップされ、幻想的な光のショーで楽しませてくれます。夏の夜には、柴山潟湖上に連日連夜、夜空を彩る花火が打ち上げられます。湖畔からは湖に映る花火、柴山潟に突き出した浮御堂からは頭上に広がる花火の大迫力。どちらもきっとあなたの記憶に残るはずです。




泉質・泉温    ナトリウム・カルシウム一塩化物泉、72度

主な効能     冷え性、関節リウマチ、筋肉痛、神経痛、きりきず、やけど、慢性皮膚病、疲労回復

                        健康増進

飲泉     慢性消化器病、慢性便秘

山代温泉(やましろおんせん)

約1300年の歴史があり、三本足のヤタガラスが発見した伝説が残ることから、ヤタガラスが温泉地のシンボルマークとなっている山代温泉。加賀の中でも昔ながらの温泉文化が色濃く残っており、「総湯」と呼ばれる共同浴場を中心に、温泉宿や商店が立ち並ぶ「湯の曲輪(ゆのがわ)」という街並みが今なお残されています。


飲泉ができる源泉は、浴びても飲んでもからだに効く「長寿の湯」と言われ、湯の曲輪(ゆのがわ)周辺には多くの文人墨客が訪れるなど、その歴史の中で独自の文化を育み、街並みの面影は温泉地の原風景となっています。


山代温泉には2つの共同浴場「総湯」と「古総湯」があります。「総湯」は100%源泉で、吹き抜けの天井にある大きな天窓が特徴的。壁面には地元九谷焼作家による手描きタイルが貼られており、様々な絵柄が楽しめます。明治19年築の総湯を復元した「古総湯(こそうゆ)」は、「湯の曲輪(ゆのがわ)」の中心にあり、柳に囲まれたこけら葺き屋根の外観は、どことなくノスタルジーを感じさせます。また、外観や内装だけでなく、温泉に浸かって楽しむだけの「湯あみ」という入浴方法も再現され、源泉掛流しの当時の雰囲気を味わえます。洋風建築の影響を受け、当時流行のステンドグラスで囲まれた浴場、当時のまま復元された九谷焼のタイル、木目が美しく映える壁面の漆塗りがなんとも幻想的。ステンドグラス越しに暖色の光がやさしく反射して湯船に彩りを添えてくれます。シャワーやカランの音もしない空間は、いつの間にか明治時代にタイムスリップしたかのよう。のんびりと湯船につかって、贅沢な空間と時間が楽しめます。




泉質・泉温  ナトリウム・カルシウム一硫酸塩・塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)

                      アルカリ性単純温泉、カルシウム・ナトリウム一硫酸塩泉、64.3度

主な効能   関節痛、神経痛、腰痛症、五十肩、筋肉痛、冷え性、痔疾、うちみ、くじき、きりきず

       やけど、うつ状態、自律神経不安定症、末梢循環障害、慢性皮膚病、慢性消化器官

       疲労回復、健康増進

飲泉     胆石、慢性便秘症、肥満、糖尿病、痛風

山中温泉(やまなかおんせん)

1300年前に奈良時代の高僧・行基が発見したと伝えられている山中温泉。

「山中の温泉は体の芯までしみわたり身も心も潤す」と松尾芭蕉が賞賛するほど。奥の細道の旅の道中、八泊九日という長逗留を果たし、「やまなかや 菊は手折らじ ゆのにおひ」と詠みました。

「菊は長寿の薬であるというが、ここ山中温泉の湯の香りは、菊に頼らなくても長生きできそうだ」となるでしょうか。そんな芭蕉の句にあやかり、山中温泉の総湯は「菊の湯」と名付けられています。


山中温泉の名所である「鶴仙渓(かくせんけい)」は、日本各地を旅した芭蕉が「行脚の楽しみここにあり」と絶賛したと言われています。春には桜、夏は新緑、秋には紅葉、冬は雪景色と季節折々の風情があります。特に春から秋にかけては、渓谷沿いに山中温泉の風物詩である「川床」が設けられ、周辺の風景とのコントラストが楽しめます。また、周囲の自然に溶け込む「こおろぎ橋」や「黒谷橋」、そして”鶴仙峡を活ける”というコンセプトでデザインされた斬新なS字型の「あやとりはし」も見応えがあります。


温泉地を散策する楽しみの一つが買い物や食べ歩き。

温泉街にある「ゆげ街道」では、山中漆器や九谷焼のギャラリーをはじめ、カフェや食事処、土産物店などが軒を連ねています。山中温泉の伝統工芸である「山中漆器」は、漆器の中でも”木地の山中”と言われるように一つ一つ異なる木目が美しい器です。木地挽きろくろ体験をするもよし、絵付け体験をするもよし、日常使いにもピッタリな山中漆器ときっと出会えるでしょう。




泉質・泉温   カルシウム・ナトリウム一硫酸塩泉、48.3度

主な効能    神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、打ち身、慢性消化器病、痔病、冷え性、病後回復

        疲労回復・健康増進、動脈硬化症、切り傷、やけど、慢性皮膚病、運動麻痺

飲泉      胆石、慢性便秘症、肥満、糖尿病、痛風

大聖寺(だいしょうじ)

十万石の面影を今に伝える大聖寺(だいしょうじ)。

古くは白山信仰の中心、白山五院のひとつであったと言われていますが、今は地名としてのみ残っています。江戸時代に加賀藩前田家の分家として「大聖寺藩前田家」が誕生。一国一城令で廃城となっていた大聖寺城にかわり、錦城山麓の一帯を藩邸としました。大火や洪水で当時の武家屋敷などが失われたものの、道路網はほとんど変化なく残されています。そのため、今でも当時の町絵図を手に町並みを散策することができ、大聖寺藩の残した痕跡は今も様々な形でこの地に息づいています。とりわけ「山ノ下寺院群」は当時の面影を感じることのできるエリアです。


大聖寺は、加賀百万石の金沢とは違い、十万石の小さな城下町でしたが、能楽や茶の湯など独自の文化や美意識が育まれました。そうした文化としての痕跡が感じられるのが、大聖寺藩の施策として始められた九谷焼です。精巧で緻密な絵付けや鮮やかな色彩は高い芸術的な価値を持ち、多くの人々を魅了しました。そして古九谷から再興九谷に至るまで様々な謎を秘めた九谷焼の魅力と歴史は「石川県九谷焼美術館」で堪能できます。


また大聖寺は、『日本百名山』の著者として知られる深田久弥の生誕地でもあります。晴れた夕暮れには、夕焼け色に染まる白山が町のあちこちから眺めることができる町。久弥が愛してやまなかった大聖寺は、素朴な自然と人情が生き生きと息づく町なのです。

橋立(はしたて)

江戸後期から明治にかけ、日本海を通って大坂(大阪)から北海道を往復して積荷を売買しながら各地を廻った買積船のことを北前船と呼びます。北前船は日本海の荒波を越えていくため、「板子一枚下は地獄」と言われるほど、常に危険と隣り合わせでした。しかし、それと引き換えに「一航海千両」と言われるほどの莫大な富も生み出しました。十万石の大聖寺藩の財政を支えていたのは、北前船の船主たちでもあったのです。


ここ橋立には、そうした北前船の船主や船頭、船乗りなどが多く居住しており、かつては日本一の富豪村と呼ばれていました。船主邸には、武家屋敷のような派手さはありませんが、いかにも海の男と思われるような美意識がそこそこに散りばめられています。多くの土蔵を持つ豪壮な屋敷や町並みにしっくりと溶け合う柔らかな赤瓦の屋根、敷き詰められた石畳など、周辺の町並みが多く残されており、在りし日の面影を感じさせます。北前船主の豪邸が建ち並ぶこのエリアは、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、ゆっくりと散策できる町です。


100km余りの海岸線を中心に国定公園に指定されている越前加賀海岸。

海岸線の中で最も日本海に突き出しており、大パノラマが楽しめる加佐ノ岬や乳白色の岩石が露出した尼御前岬など、まさしく海の景勝地が連なっています。石川県有数の漁港で、甘エビ、マダイ、ノドグロ、イカ、カレイなど四季を通じて数百種類の魚介類が獲れる橋立漁港。橋立港で忘れてならないのが、冬の味覚の王者「ズワイガニ」、石川県では「加能ガニ」としても知られています。カニ漁の漁場から近い橋立港は、漁に出てから水揚げされてセリに出るまでの時間が短く、新鮮で身が締まっています。また、漁期の短いメスのズワイガニを香箱ガニ(こうばこがに)と呼び、地元では好んで食します。

動橋(いぶりはし)

大聖寺藩の藩政期には、北國街道の宿場町として賑わった動橋(いぶりはし)。

この地を流れる川に架けられた橋は、街道を通る人々が渡るたびに”揺れ動き”(=加賀の方言で”いぶる”という)が、その特徴的な名前の由来となりました。今も江戸時代創業の造り酒屋や献上加賀棒茶を作る製茶場など由緒正しい店舗が営々と商いを続ける町です。


創業以来250余年続く老舗の蔵元「橋本酒造」。霊峰大日山から流れ出る清流と磨かれた酒造りの技術を生かし、絶妙な味を醸しだしています。店内に足を踏み入れると、そこには酒造りに使われた品々だけでなく、嫁入りの際に使われたという駕籠(かご)や櫛など、かつての生活が垣間見られる貴重な品々が飾られ、現代に至るまでの軌跡を示す資料を見学することができます。また、創業1819年の「鹿野酒造」は、白山の伏流水「白水の井戸」から湧き出す水と自家栽培している酒米「山田錦」を使った品質本位の酒造りで、ふくよかな香りとキレの良さが特徴です。煙突が伸びた渋墨塗りの酒蔵は、民家の中にありながらもひと際目立ちます。


1863年江戸末期に創業し、加賀棒茶をはじめ日本茶の製造(焙じ)・販売を行っている「丸八製茶場」。1983年、昭和天皇に献上したことからうまれた「献上加賀棒茶」は、一番摘みの良質な茎を浅く焙じており、芳ばしい香りとすっきりした味わいが特徴です。工場での製造(焙じなど)の様子を見学することもできます。